ウィルの背中を見送って、ローズは大きなため息をついた。
ふと暗い顔をあげると、目の前に、少しふくよかで朗らかな笑顔を、緑のマスクの下にたたえた若い紳士が立っていた。
「僕と踊ってください」
そう言って若い紳士は手をさしのべてきた。紳士と言っても、まだ子供のような口ぶりだったので、なんの警戒心も抱かずにすんだ。
正直、ローズはウィル以外の人と踊りたいとは思わなかった。それでも、ウィルの言葉もあるし、目の前の人はさっき囲まれた人たちのようにがつがつした感じがなく、気さくな雰囲気を持っていたため、つい、その手をとっていた。
「……私で良ければ」
新しい曲が始まり、二人は控えめに広間の端のほうで手を組み合った。若い紳士のリードは強引さが無く、とても優しかったが、先ほどのウィルの力強いリードを思うと、少しばかり物足りない気もしてしまい、ローズは自分をたしなめた。
ふいに紳士が言った。
「なんだか元気がないけど、先ほど踊っていた方と何かあったのかな」
軽い感じで言われたので、ローズも気軽に答えることができた。
「いいえ、私が欲張りなだけなのです。少し幸せな気持ちになると、もっと、と思ってしまうから」
「そうですか」
紳士は楽しげに言った。
「いいじゃないですか。あなたはきっと、もっとわがままになっていいんじゃないかな」
「でも、もう困らせたくはないのです」
ステップを踏みながら、ローズは険しい顔をした。
それを見て、紳士は穏やかに笑った。
「あの方はとても素敵な方のようだ。こんなにあなたを夢中にさせるなんて」
ローズはぽっと頬を染めた。
「小さい頃は、忙しい父に代わっていつも側にいてくれたのです。それこそ、どんなわがままも聞いてくれた。だけど、8年ぶりに会ったら、とても立派になっていて……。私、まだまだ子供の自分が恥ずかしいのです。私も早く大人になって、ウィルの隣にいても釣り合うようになりたい」
ローズは力強く言った。
「おや、あなた方お二人はとてもお似合いでしたよ。8年ぶりとは思えない、息の合ったダンスだったな」
「そうですか?でも、ウィルってば、最初、私に気づかなかったんです。私はすぐわかったのに。それに、やっと帰ってきてくれたと思ったら、仕事が終わったとたんすぐに国を出ようとするし」
ぷりぷりと怒り出したローズを見て、紳士はおもしろそうに笑った。
「それはいけないな。僕からもこの国にいてくれるよう計らいますよ」
「え?ウィルとお知り合いですか」
ローズは驚いて聞いた。
「いえ、まだちゃんと会っていないけど、これから会えると思います。僕はずっとこの日を楽しみにしていたんだ」
胸をときめかせて、ひとりごとのように言う紳士をローズは不思議に思った。
ふと、紳士の肩越しに黄色のマスクをした栗色の髪の女性に目がいった。
「あの……、あの方はお知り合いですか。なんだかこちらを睨んでいらっしゃるような……」
睨んでいるわけでは無かったが、鋭すぎる視線が、人にそう思わせてしまう。ローズがこわごわ言うと、紳士はくるりと位置を変えて確認してから、言った。
「ああ、あの人は、僕の大切な人ですよ」
「まあ」
臆せず言う紳士に、ローズはとても好感を持った。
「私などと踊っていていいのですか?あのお綺麗な方と是非踊るべきですよ」
「誘ったのですが、冗談だと思われたようで、無下に断られました」
紳士は苦笑した。
「僕の想いは、まだまだ届かないみたいだ」
「私で良ければ応援いたします」
ローズは目を輝かして言った。
「ありがとう。あなたはガードナー家の方ですね」
「はい。ロゼッティーヌと申します」
仮面舞踏会といっても、とくに身分を隠す必要はないため、ローズは正直に答えた。
ちょうどそのとき曲が終わり、二人は礼を交わした。
「私はアルバートです。今度また、お会いすることになるでしょう」
紳士はマスク越しに微笑み、栗色の髪の女性のもとに戻って行った。
姓を聞き忘れた、とローズは思った。それでも、装いは見事な仕立てのものだったため、きっとまたこのような場でお会いできるかもしれない。
そういえば、即位されたばかりの国王陛下と同じお名前なのね。
ローズはふと、そう思った。
ウィルが後をつけていた客は、歩き慣れているのか、迷うことなく廊下を曲がり、階段を上っていく。大広間を離れれば、そこは一転シンと静まりかえっていた。しかし、いたるところにある彫像や置物はウィルの姿を隠し、毛足の長い敷物はその足音を消してくれた。大貴族だけあって、屋敷内はどこをとっても美しく整っており、デリンジャー家の裕福さを象徴している。
いくつかの廊下と階段を通り、客は目的の部屋に辿り着いたようだ。物陰から伺っていると、客のノックに答えて扉が開き、デリンジャーが現れその客を招き入れた。
この部屋に間違いないようだ。
ウィルは両隣の部屋の扉を見比べてから、左の部屋を選び、その扉に手をかけた。案の定、鍵がかかっていたため、すばやく開錠し、ゆっくりと扉を開くと暗い部屋の中にするりと忍び込んだ。
窓からもれる月あかりだけを頼りに窓辺へと近づいていくと、足元に柔らかい感触があった。
「またか」
げんなりとしたが、くしゃみはでない。下を見て確認したが、月明かりに浮かび上がったのは、確かに天敵である猫だった。親しげにニャアと泣き、すり寄ってまでくる。それでもウィルに変化はなかった。どうやら、ローズの薬が効いているらしい。
「これはいい」
これなら、この国での仕事を増やしてもいいかもしれない、とまでウィルは思った。
ウィルは珍しく猫に愛想笑いをしてから、窓辺に辿り着いた。それから窓を開け、顔をゆっくりと外にだして明かりがもれる隣の部屋を確認した。そして人目がないことを念入りに確かめて、バルコニーに出た。隣の部屋のバルコニーまではジャンプしただけでは届かない距離にある。ウィルは上を見上げ程よい突起を見つけると、懐から細いが頑丈なロープを取り出して、小さなおもりが付いた先を上空に向けて放りあげた。おもりがストッパーとなるように、ロープはうまい具合に突起に絡みついた。引っ張ってもはずれないことを確認して、バルコニーの淵に上ると、そのロープを握ったまま、ウィルは軽やかにジャンプした。振り子の要領で、静かに隣の部屋のバルコニーに飛び移るとすぐに窓の淵に寄った。慎重に中を覗き込むと、デリンジャーと特別な客たちが中央に集まり談笑している。そして、その人々の真ん中の卓上に、柔らかいシルクの布の上に置かれ、照明に反射してキラキラと輝く王冠がかいま見えた。
「あれか?」
客たちは感嘆の声をあげているらしく、腕を組んだり、老眼鏡を取り出してじっくりと眺めたりしている。デリンジャーは鼻高々に王冠の説明をしているようで、身振りが大きい。
さて、どうするか、とウィルがしばらくその光景を密かに見ていると、デリンジャーが客たちを部屋の外へといざない始めた。鑑賞会は終わって酒でもどうか、という話になったようで、クイッとグラスを傾ける仕草をしている。客たちはもっと見たいと未練がましい声を上げているようだったが、とうとう当主の提案を受け入れ、しぶしぶ全員が部屋を出て行き、最後にデリンジャーが部屋の照明を消した。
ウィルは目が慣れるまでしばらく待つと、窓ガラスを小さく削り取って中に手を入れ、窓の錠を外した。ゆっくりと窓を手前に開き、中へと足を踏み入れる。誰もいないことを確認してから、中央の台座へ歩み寄った。
月明かりに照らされて輝く王冠がウィルを迎える。
ウィルはそれを見つめて、にやり、と笑った。