第7章 シス―3
初めてアークを出た日、シスが無事に帰ってくると、ライルはさすがに少しほっとしているように見えた。
それからのライルは、さまざまなことをシスにしてくれるようになった。学習用のモバイルパソコンにネットワークをつなげて、自由にウェブ情報を得られるようにしてくれたり、図書室の本の中にこっそりコンピューター関連の本や、最近発行された本を混ぜてくれたりした。
ウェブの接続記録や履歴はすべてライルが消してくれるという。また、監視カメラの死角まで教えてくれた。どうしてライルが危険を冒してまで、こんなことをしてくれるのか、シスにはさっぱりわからなかった。
「あんた、一体何者なんだ。なんでここまでしてくれる?」
シスが聞くと、「ただのいい人なのさ」と笑ってかわされる。
訳がわからなかったが、とにかくシスは、新しい情報を今まで乾いていた部分にどんどん吸収していった。
世界は、とても長い歴史を経て、3つの大きな連合国を形成していった。我が国は、そのうちの一つの連合国から巨大な国家へと成長を遂げた。他2つの連合国は互いに協調関係を築いていたが、我が国は対立路線を崩さなかった。やがて微妙なバランスで保たれていた均衡が破れたとき、全面核戦争が引き起こる。ここまではシスも歴史の授業で学んでいたことだった。この先がシスの知らないことだった。
世界の各地から放たれた核弾頭は、救世主がその奇跡の力ですべて葬り去った。一時は世界の終末を覚悟した人々も、その奇跡を目の当たりにして、感動するとともに冷静になる。その後、我が国と二つの連合国によって、核兵器廃絶の協定が結ばれる。それでも世界平和とはいかず、我が国は現在でもいくつかの戦争を抱え、世界から孤立をしている。国内では、我が国を選び現れ出でた救世主に対する畏敬の念は膨れ上がり、神として称える教会が発足し、現在は国教ともいえるほどの大きな力を持っているらしい。
世界は続いている。それをこの目で見て、多くの情報を得て学ぶうちに一つの思いが一層強まって行った。
ここから逃げる。シスは決意していた。それでも、やみくもに逃げるだけではだめだと、最初に上に出てよくわかった。多くの知識と緻密な準備が必要なのだ。
それには、自分たちはなんなのか、なぜ、ここに閉じ込められているのかを知る必要があった。ライルに聞いても「自分で調べろ」という返事しか返ってこない。
そこでシスはハッキングという手段があることを知った。必死でウェブや本で勉強した。ときどきはライルに助言をもらった。
まずアークが所属するザイテックス社のシステムに入り込む。これは容易にできたが、アークに関する部分に入りこむことはとても困難なことだった。
「国もかかわるトップシークレットだからな。この会社の中では最も重要な機密事項だろう」
ライルは平然と言った。
国も関わる機密。そんな中にいて、本当に逃げ出せるのだろうか。
初めてアークを出てからもう少しで一か月というとき、アーク部分の機密情報にようやくハッキングすることができた。しかし、それは何重にも守られていて、その一部分しか見ることができない。なぜ、自分たちがここにいるのか、ということはわからなかったが、驚くべきことがそこには示されていた。2回目の外出はそれを確かめることが大きな目的だった。
今日、二度目の第一水曜日に、シスはライルから、返す当てなど全くないのだが、金を借り、生まれて初めて乗るタクシーでいくつかの場所をまわった。サングラスと帽子も借りたが、運よくその日は曇り空だった。それにシスは、外に出て気分を悪くした次の日から、与えられたカリキュラム以上にマシンを使って体を鍛え、食事も多くとるようにしていたため、前回のように具合を悪くすることもなく無事に帰ってくることができた。
今日の結果をアンに伝えようとホールに行った。以前、最初の外出の話をしたら、夢でもみたの?と小さく笑われてしまった。ウェブや新しい本を見せても、それが現在の世界だと証明するすべはなく、信じてもらえない。それも当然で、シス自身実際にこの目で見るまでライルの話を信用しなかった。14年間思い込んでいたことはそう簡単に覆らない。ハッキングした内容は自分で確認するまでアンに伝えるのはよそうと思っていた。ぬか喜びさせるわけにはいかないからだ。
しかし、今日の外出の成果は大きく、アンもきっと喜んでくれるに違いない。今日もアンはソファで静かに本を読んでいる。
隣に座るとアンが顔を上げた。
……どこに行っていたの?
優しく笑うアン。このどこか翳りのある笑顔を、心の底から溢れ出る笑顔に変えたい。
シスが話そうとしたとき、ホールのドアが静かに開き、大人が数人入ってきた。
フェルデン博士と助手のグレゴリー、そして恰幅のいい中年の男だった。
グレゴリーは博士の一番の助手で、何かとでしゃばってくる男だった。昔から、シスはあまり好きではない。もう一人は初めて見る大人だった。
6人の子供たちは緊張し、動きを止めた。その中年男は顔をニヤつかせながら、ホールをぐるりと見回した。子供たちに注がれる目は好奇に満ちている。
どうやらミーティングが終了したらしい。あと少し遅かったら、秘密の外出がバレてしまうところだった。シスは密かに胸をなでおろした。
「アーク実験室は環境が整っているな。他の部署にも見習わせたいものだ」
男は大きな声で、まるで子供たちは言葉を理解できないものでもあるかのように博士に言った。
実験室と聞き、子供たちは一様に動揺した。
「やはり、セキュリティールームでお話ししましょう」
博士が焦りをみせ言った。
「何、構わん。私はこの目で見たいのだ」
そして男はアンに視線をうつした。
「男女は別にしないのか?いつのまにかはらまれでもしたら研究に支障をきたすぞ」
そんな視線をアンに浴びせること自体シスは許せなかった。
グレゴリーが後ろから口をはさんだ。
「大丈夫です、ベルナール専務。そういったことがおこらぬよう薬で対処しております。研究に支障をきたしてはいけませんからね」
実験室、そして研究。偽りだらけのアークの現実を知っているシスは怒りを募らせた。こいつらにとって自分たちは意志を持たない人形のようなものなのか。
しかし、一体なんの研究でなんのための実験なのか。
「なるほどな。それで次回の臨時ミーティングには誰を連れて行く?」
ベルナールと呼ばれた男は、もう一度ホールを見回した。既にみなその視線に恐怖を感じている。
言い淀んでいる博士にかわって、グレゴリーが言った。
「あそこにいるキャトルが現在優秀な成績をおさめていますので、適役かと」
「わかった」
キャトルはドキンと体を跳ねあがらせたが、褒められてまんざらでもなさそうな顔をした。
「それと……」ベルナールはぐるっと視線を巡らせた。
「女の子はいた方がいいな。場が華やぐ。クリストフ氏にも好印象だろう」
「この子は今声が出ない状態ですが……」
博士が言った。
「なに、一時的なものなんだろう?風邪で喉を傷めているとでも言えばいい」
「どこに連れていく気だ?アンのかわりにオレが行く」
シスが立ち上がってアンの前に立ちはだかった。
ベルナールは目を丸くして、笑いだした。
「ナイトの登場か。いや、まいった。これはよく出来ている」
人形がしゃべった、とでも言いたげな表情だった。
「シスは最近成績が悪く、反抗的な態度をとるので、失態をおかす恐れがあります」
ベルナールに対して献身的なグレゴリーがすかさず助言した。
「シス、心配はない。ただ力の成果を見せてもらうだけだ」
博士が言った。とても疲れているように見えた。
「『神の子』たちの出来はどうだ?順調なんだろうな?」
ベルナールは博士を見た。
「はい、今のところは……。しかしゼロの例があります。この先は同じ結果になる可能性が極めて高い。この環境を見直すべきです」
「ゼロのことはいい」
ベルナールは即座に言った。
「あれはただの失敗作だ。気にするな。既に終わったことになっている。報告書にもゼロの名を載せるなよ」
ベルナールは博士とグレゴリーに睨みを利かせた。
それから、他の部屋をそれぞれ一瞥し見学を終えると、三人はホールから騒々しく出ていった。
「なんだ、ありゃ。訳のわからないこと言いやがって」
サンクがその大柄な体でいきり立った。キャトルは一人浮き足立っている。
トロワは「ねえ、ここは実験室なの?どこで、なんの実験をしているのかな」と、きょろきょろとあたりを見回した。
誰も、人間である自分たちが、その実験材料だとは思わないだろう。しかし、本当にいったい何のためにアークはあるのか。
アンは思ったよりも落ち着いていた。というよりも、最近のアンは生に対してなんの未練もないように見える。
……さっきはありがとう。私は大丈夫よ。
アンはシスに微笑みかけてから、読んでいた本に視線をうつした。アンは日に日に絶望の淵へと追いやられているような気がして、シスは首を振った。
アンはとてもきれいな声をしていたのだ。その彼女が声を失ったのはあることがきっかけだった。
今から4年ほど前。
アンは多くの物語を読む中で、家族というものに強い憧れを持っていた。自分たちが核戦争後の孤児であると教えられていたため、もし戦争が無ければ一緒にいられたであろう家族のことを想像して、この息苦しいアークでの生活にむしばまれていく心を癒していたのだ。
ある日、みんなで受ける授業とは別に行われる能力開発の個別指導の時間に、白い小さな部屋の中にアンがいる間、順番が次のシスは外の前室で待っていた。
その白い部屋は防音の設備がなされており、外には何も聞こえない。しかし、突然、頭の中でアンの悲鳴が聞こえた。
シスは驚き立ち上がると、次の瞬間、部屋の中から助手のグレゴリーが慌てて出てきた。
グレゴリーの白衣の腕の部分が真っ赤に染まっていてシスは驚いた。切り裂かれた袖の中から、刃物で切りつけられたかのような生々しい傷が見えた。しかし、部屋の中にそんなものがあるはずはない。もう一方の手で傷を押さえながら、慌てふためいたグレゴリーと他の助手たちは大きな白い扉から出て行った。
アンの身が心配で部屋に入ろうとすると、真っ青な顔をしたアンが、よろめきながら出てきた。
「どうした?アン!大丈夫か?」シスは急いでかけより、彼女には何の怪我もないことを確認して安心した。そのアンの後ろから、無表情の博士が出てきた。
「よくやった、アン」
昔のような笑顔はそこにはない。シスが大好きだった博士はもうどこにもいない。
「今日はここまでにする」
博士は光の無い目でシスにそう言うと、ゆっくりとした足取りで白い扉から出て行った。
「アン、いったい何があったんだ?」
アンの体は見た目にわかるほど震えていた。悲痛な表情で一点を見つめ続けている。
そして、そのときからアンは、声を失ってしまったのだ。前ほどには笑わなくなり、笑顔を浮かべてもどこか暗い影が見える。
あの白い部屋で何が起こったのか、心で会話ができるようになってもしばらくは話してくれなかった。そんなある日、アンがふと言った。
……親に捨てられた子供だから、しょうがないね
すべてを諦めた無気力な言葉だった。
問い正すと、グレゴリーに白い小部屋で言われたのだと言う。
かつて、今は亡き家族への夢に溢れていたアン。自分の家族はどんな人達だったのか、能力開発の指導が始まる前に強く尋ねたのだと言う。博士は何も答えてはくれず、それでも食い下がると、グレゴリーが投げやりに言った。
「おまえたちは捨てられたんだ。ここに居られるだけありがたいと思え」
その日の能力開発はアイスソードだった。
放心状態から自暴自棄となったアンの力がグレゴリーに向かった。飛び散る血を見て、我に返ったアンは、自分の招いた結果に驚愕し、恐れた。
そしてその声を失ってしまったのだ。
シスは自分を犠牲にしてでも、彼女をここから出したいと思っている。
ハッキングした結果、新たな事実が判明したのだ。
自分たちには親がいる。シスは、思いもしなかったことに驚いた。自分たちは孤児ではなく親は生きており、また精子と卵子の提供者というわけでもなく、本当の夫婦である両親だった。ではなぜ、自分たちは彼らから引き離され、ここにいるのか。そこにはその謎を解く鍵は何もなかった。両親の写真、氏名、住所の他に健康状態が事細かに記されている。彼らはみな持病もなく、またその遺伝子にも異常のない健康な人間であることがわかった。
親がいるのならばそこに帰れるのではないか。アンを両親のもとへ、心身ともに穏やかでいられる場所へ帰したいと思った。
そして、今日の外出で多くの情報を得ることができた。
キャトル、サンク、トロワの親は健在で、家もその住所にあった。しかし、ドゥの家は売りに出されていて人がいなかった。それでも、システムの情報にあった通りのドゥの父親の姓名が書かれた看板があったため、おそらく転居しただけだと思われた
最後にアンの家の様子を見に行くと、なぜか以前会った少年がいた。偶然だが、近所の子かもしれないと思った。
力を使って窓を開け、話を聞いた。アンの両親はアンの帰りを待ち続けている。それが痛いほど伝わり、シスは目頭が熱くなった。ここに来ればアンは幸せになれると確信し、シスは心から安堵した。
今日、これからアンにすべてを伝えるつもりだ。きっと最初は前回のように信じてくれないだろう。それでも、根気よく伝える。そしていつかは家族に会わせてあげたい。きっとアンはその瞳を輝かせることができるに違いない。
ふとシスはその際に聞いた「事件」という言葉を思い出した。話の内容はよくわからなかったが、自分たちが両親から引き離されたことと何か関係しているに違いない。
自分の家には時間切れで行けなかった。時間があったとしても行けたかどうかは定かではない。シスは恐かった。自分の家が無かったら。もしあっても、自分のことなどとうに忘れられていたら。帰りついたとしても歓迎されず邪見にされてしまったら。
シスはホールの隅の死角でモバイルパソコンを開いた。親がいるという感覚は不思議なものだった。その存在だけで自分を鼓舞してくれる。それゆえ、過剰に期待してしまう。しかし、その期待が裏切られたときのショックは恐ろしいほど大きいに違いない。
キーを操作してハッキングし、アークの情報に入り込む。そして、シスの両親の写真を表示させた。
そこに映っていたのは、若き日のリックとミカだった。