第3章 リュカ-1
「だれ?リュカの知り合い?」
「ううん、知らない人だよ」
走って集団に追いつきリュカが答えたとき、集団の先頭にいた大人が振り向いて言った。
「さあ、みなさん、これから博物館の中に入ります。きちんと先生の後についてくるのですよ」
「はーい」
皆が間延びした返事をする。リュカも声を合わせた。しかし隣にいるサラと違い、今回の校外学習はあまりときめかない。自然史博物館だったら良かったのに、とリュカは思った。
博物館の中に入ると無駄に広い空間が現れた。溢れるほどの人の波を割って、リュカたち小学生の団体は先生の引率のもと進んでいく。ここ数年、国としてこの博物館の校外学習を推奨しているため、平日は子供たちでごった返す。その盛況ぶりを聞き、大人たちも来館するらしい。
博物館のガイドが、先生と軽い打ち合わせをしたあとに、皆に向かって両手を広げた。
「みんな、よく来たね。僕の名前はエリック。今日は僕がみんなを案内するよ」
愛想のいいその若者は、慣れた口ぶりでなめらかに話しだした。
「ここはザイテックス社の遺伝子工学博物館です。遺伝子というのはみんなも知っているよね。両親から受け継がれた情報は遺伝子の中に組み込まれています。僕たち人間だけじゃなく、野菜や植物にもあるんだよ。ここザイテックス社では、その遺伝子を組み替えたり、複製したりする研究をしています。みんなの食卓に並ぶものを、より安全で栄養のあるおいしい食べ物にするための研究をずっと続けているんだよ。このビルの中にはそういった研究室や実験室がたくさんあるんだ。
この博物館では、遺伝子の仕組みや成り立ちだけではなく、ザイテックス社の研究成果をわかりやすく展示してあるので、これからそれをみんなに見てもらおうと思います。じゃあ、僕のあとについてきてね」
ぞろぞろとガイドのエリックのあとについて大きなホールの中に入った。たくさんのブースを一つ一つ説明されながら、順路通りに進んでいく。
無理に食物の遺伝子を変えて、おいしくしたり栄養をいっぱいにするなんて、なんか不自然だし都合がいいなあ、とリュカは眉を寄せた。
やっぱり自然史博物館のほうが良かった、と考えてよそ見をしていると、隣のサラにひじでつつかれた。
「感想文書かなくちゃいけないんだから、ちゃんと聞いてなきゃだめよ」
サラは勉強熱心で頭もいい。いつでもどんなことでも吸収しようとしている。今日もノートを手に一生懸命何かを書いていた。
ホール内でのひととおりの説明が終わり、エリックの案内で子供たちはぞろぞろと次のフロアへと動き始めた。
「痛っ」
隣のサラが小さく言った。
「どうしたの?」
リュカが覗き込むと、サラはノートの紙で指を切ったらしく、押さえた指の先から血が滲み始めているのが見えた。
「もうっ。ここ空気が乾燥してるんだもの。いやだ、結構深く切っちゃった」
サラは険しい顔で指を見つめた。それから「そうだ」と何か思いついて顔を上げた。
「ねえ、リュカ。あのときみたいにして」
そう言って血のでている指をリュカの顔の前に立てた。
「あのとき?」
「そう、小さい時にしてくれたみたいにして」
リュカはなんのことかさっぱりわからなかったが、サラのまっすぐの視線を受けて、仕方なくつぶやいた。
「えーと……ちちんぷいぷい、痛いの痛いの飛んで…け?」
「ばか!」
サラはなぜか急に怒り出した。
「子供じゃないんだから!」
そう言って血が傷口から溢れだしている指を乱暴におろした。
「だって、小さいときみたいにって。それに僕たちまだ子供だろ」
「もう、いい!先生に絆創膏もらってくる」
サラは、どすどすと引率の先生のところに歩いていってしまった。
「何怒ってんのかなあ……」
リュカは困惑しながらその後ろ姿を見送った。