第3章
「本当にアリシアにはかなわないなあ……」
ムクに乗り空を飛びながら、リクは改めて感心していた。アリシアはこの空のもと、恐れというものをまったく抱いていない。リクを追いかけて初めて飛んだときから、アリシアはそうだった。
人々は、アリウムガスを底に詰めた大きな浮島で生活を営んでいるため、眼下に広がる厚い雲のさらにその下に何があるのか、誰も知らない。誤って落ちたもの、自らそこへ降りたものが戻ってきたことは一度もないからだ。
それゆえ、浮島の上空以外で飛ぶことには常に危険がともなう。しかし、アリシアは飛ぶことを本当に楽しみ、この空の底に何があるかなど、まったく気にしていない様子だ。
そんなアリシアが、ムクとともに自在に空を飛びまわるのを見るのは、胸がすく。リクもアリシアと飛ぶようになってから、飛ぶことがもっと好きになった。それくらい、アリシアと飛ぶのは楽しく気持ちが良い。こうして一緒に飛ぶことも無くなるのかと思うと残念でならなかった。
アリシアが船を降りるという決断をしたとき、リクは意外に思った。農作物に人一倍の興味を持っていることは知っていたが、一緒に飛んでいるからこそ、飛ばないアリシアの生活を想像できなかった。
父から決断を迫られたとき、アリシアは迷いもせずに目を輝かせてこう言った。
「私、農業をやりたい。島の土からたくさんの作物を作りたいの」
そして、リクを見てから溜息をついた。
「一緒にいられないのは寂しいけどね」
リクはこの決断を後悔などしていない。しかし、こんなに飛ぶことが好きで今まで見た誰よりも飛ぶことが上手いアリシアが、浮島の地に足をつけて飛ばない生活をするなんて、船乗りを目指すリクにとってはあまりにももったいないことだと思ってしまう。
このままアリシアと離れるのは何かすっきりしない。この、霧がかかったような思いをどうしたらよいのかわからず、故郷の浮島ラーザへの寄航が近づくにつれて、寂しさとともに焦りにも似た感情が沸き起こっていた。
「ねえ、リク!あれ見てー!」
アリシアが青ムク、リーをリクの乗るルルに近づけて叫び、船の進行方向のずっと先の空を指差した。
リクは、アリシアの指す方向に目をこらした。
到着までまだ間があるが、その先には次の目的地である浮島フルーラが小さく見える。
「フルーラだろ?!そろそろ戻ろうー!」
青空とわずかな雲の中に浮かぶ島、フルーラは商業の盛んな大きな島だ。多くの船が行き交いさまざまな物が取引され、人々の活気で溢れている。フルーラでそろわないものはないと言われるように、グース号はこの島では納品よりも仕入れを多く行う。
「違う、違う、その上!たくさんムクが飛んでるのー!」
「え?!」
リクはもう一度、まだ米粒大にしか見えないフルーラを凝視したが、ムクまでは見えなかった。アリシアはとても目がいいのだ。
「もしかして……」
リクは指折り数えてみた。前回フルーラに来たときはたしか、桜の季節。それから6ヶ月は経っている。この時期にムクがたくさん飛んでいるということは……。
「ムクの飛行大会だ!!」
リクは笑顔でアリシアに叫んだ。アリシアも顔をほころばせてうん、うん、とうなずいている。
名うてのムク乗りたちが一堂に会するこの飛行大会は近隣諸島では有名で、それを見るためだけにさらに多くの人々が集まる。ただでさえにぎわっているこの島は、この時期には大会に関連したイベントなどでお祭りさわぎが連日続くのだという。
リクたちも一度見たいと思っていたのだが、グース号のフルーラ寄港予定と大会の時期は今まで一度も合わなかったのだ。飛行大会の時期は港が込み合うからとグレッグ船長が嫌うため、リクは大会を見ることをすっかり諦めていた。
ふと、リクは何ヶ月か前にグース号の寄港スケジュールが大きく変わったことを思い出した。当初の予定ではフルーラへの寄航はもう少し遅い時期になっていたはずだ。
……確か、グレッグ船長がスケジュールを変更したのは、父さんたちが船を降りることが決まってすぐの頃だった。
リクはうれしそうに飛ぶアリシアを見ながら思った。
船長は父さんたちやアリシアのためにスケジュールを変更してくれたのかもしれない。
船を降りれば、故郷の浮島ラーザからこんなに遠いフルーラへくることは2度とないだろう。今回が最後の飛行となる父さんたちへのはなむけとして、あえてこの飛行大会というお祭り行事の時期に寄航することにしてくれたのだと、リクは思った。
操舵室からも浮島フルーラの姿がくっきりと見え始めていた。
人々が生活する空に浮かぶ島々は、その底に浮揚用ガスのアリウムを大量に詰めて空中に存在する。大昔に島の底を探検した人々が遺跡として、現在でも稼動し続けるアリウムガスの発生装置を発見した。その原理を応用して飛行船を作り、互いの島々を行き来することができるようになったのだが、誰がその装置を作ったのかは、どの島にも記録が全くなかった。
外から戻ってきて操舵室に駆け込んだリクとアリシアは、隣接している自室からのっそりと出てきたグレッグ船長に飛びついた。
「ムクの飛行大会があるの知ってたんだね!」
「船長、大好き!」
大木にとまったセミのようにミンミンと騒ぐ二人に船長は両耳をふさぎ
「ああ、そうか、うっかりしていたなあ」
ととぼけて見せた。
アルとミナは既に気づいていたようで、驚きはしゃぐ二人を楽しそうに見ている。
「おいおい、すごいぞ、これは」
船の進行方向を見ていたトニーが驚きの声を上げた。
空に悠然と浮かぶ浮島フルーラは、故郷の島ラーザの何倍もの大きさを持ち、自然が多く、起伏に飛んだ地形となっている。その浮島の底は緑の蔦にびっしりと覆われ、アリウムガスの発生装置と多くのガスを詰めていることなど、外からではまったくわからない。
その地上では色とりどりの商業施設が華やかに立ち並び、人々を快く迎え入れてくれる。何度か寄航しているため、フルーラのことは皆よく知っているつもりだったのだが、今日はいつもと様子が違っていた。
島の上空には青と赤のたくさんのムクが、色鮮やかな塔や建物の上を幾重にも飛び回っている。まるで花畑に集うハチのようだ。一度にこんなにたくさんのムクを見たことのなかったリクとアリシアは正面のガラスにへばりつき、興奮ぎみに叫んでいた。
「アリシア、見ろよ。すごいぞ!あのムクでかい!」
「赤ムク初めて見たぁ。こんなにたくさんいるんだね」
赤ムクは、赤黒いうろこを持ち、青ムクよりも体が大きく、気性も荒い。主に戦争時に乗られるムクであるため、平和なこの地域では珍しい。
グレッグ以外この時期に寄航するのは初めてのため、もの珍しく外を見ていると、島に近づくにつれ、普段はあまり見ることのないきらびやかな観光船が、着陸しようとして上空で何隻も順番待ちをしているのがわかった。下手なムク乗りがときどきぶつかりそうになっていて、ひやひやとさせられる。
「これはまいったな。こんなににぎやかだとは。着陸するのが夜中になってしまう」
アルは操縦席に座り込み、頭を抱えてグレッグ船長を見た。
しかし、船長は余裕の笑みを浮かべ、観光船の行列とは違う方向を見ている。アルもその方向を見ると、地上から1頭の大きな青ムクが飛んでくるのが見えた。
グース号の正面まで上がってくると、そのムクに乗った男が笑顔で大きく手を振った。船長もそれに答え手を振ると、男のムクは方向を変え飛んでいった。
「ついていけ」
グレッグ船長が言うと、アルは目を丸くしてから笑い、操縦桿を握った。
「あれは港のヤーガですね。さすが船長、根回しがいい」
ヤーガのムクについて高度を下げていくと、その先にはいつもと違う小さな港が見えた。この混雑で、通常では使わない港も開いているようだ。
数隻しか停泊できないであろうその港の上でムクは羽ばたくと、ヤーガはグース号に向き直り、着艦場所を指し示した。
「初めての港だね」
リクは下を覗きこんだ。飛行船の港は屋外で、許可された船は上空から直接入港する。
その港はいつもの港のような華やかさには欠けるが、何時間も待つよりはよほどよい。港には既に、装甲の厚そうな黒くて大きな船が停泊していた。
「あれは……確かザイオンの船だよね」
リクの言葉に、グレッグ船長は片眉を上げ、リクの隣に進み出た。
ザイオンは次の寄航予定の浮島で、武器の製造とその売買をしている島だった。グース号は武器の取引はしないため、ザイオンでは生鮮品の卸のみをしている。
グース船長は眉間にしわを寄せて眼下の黒い船を凝視していた。
アルはヤーガの指示どおりに港の着艦場所の上まで船を進ませた。あとは着陸だ。
「リク、やってみるか?」
アルが手招きしてリクを呼んだ。
「いいの!?」
リクはパッと顔を輝かせ、父親と船長の顔を交互に見た。ふたりとも大きくうなずいたため、アルのもとに駆け寄ると、隣のトニーが席を譲ってくれた。
「ありがとう、トニー」
「しっかりな」
トニーは片目をつぶってみせた。
リクは慎重な面持ちで操縦席に座り、おそるおそる操縦桿を握った。着陸を実際に操縦するのは始めてだ。練習だけはしていたため、手順を頭の中で繰り返した。
体を硬くしているリクを優しく見てからアルは言った。
「アリウム放出」
リクはアルを見てから「アリウム放出」と繰り返し、練習どおりに手元の機器を操作した。
グース号はゆっくりとアリウムガスを放出させてその高度をさげていく。リクは操縦桿をぐっと握り締めた。着陸場所を計器で定め、それを見つめながらゆっくりと腕を動かし操縦桿を操作した。
「リク、がんばって!」
後ろでアリシアがミナの手を握ってリクを見守っている。
船を平行に保ちながらアリウムを吐き出さなければならないため、水平計と、アリウムの残量計に目を配りながら少しずつ船を下ろしていく。船の操縦で一番難しい操作だ。これができさえすれば、リクは13歳にして船の操縦を完璧にマスターしたことになる。
着陸位置に気をとられ、途中多少左に傾いたが、うまく持ち直し、なんとか無事に着陸をすることができた。リクは大きく息を吐き、額の汗をぬぐった。
「うむ、まあ、合格としてやろう」
グレッグ船長が後ろでニヤリと笑った。
「すごい!リク、おめでとう!」
アリシアが飛び上がって歓声をあげる中、リクはぐったりといすにもたれて「へへへ」と照れ笑いをした。隣のアルは誇らしげにリクを見てから、ミナと目をあわせうなずきあった。