第1章
月の隠れた暗闇の空を飛行船グース号は静かに航行していた。
船内では、今年ようやく3歳となったリクが、丸窓から外をじっと眺めている。
「赤ちゃんだねえ」
窓ガラスに小さな指を突き立てて、リクはくすくすと笑いながらつぶやいた。
その脇で巻き込んだ帆の調整をしていたアルは、作業の手を止めることなく息子を横目で見た。
「ほうら。だから先に寝ていなさいと言っただろう。そんなところで寝ぼけても、父さんはベッドに連れて行ってやらないぞ」
昼間の強風で、この飛行船の帆の結び目が何箇所か外れてしまった。帆の代用となるプロペラで今は飛行しているが、今夜中に作業を終えなければ、明日もプロペラに余計な燃料を使わなければならない。それほど裕福ではない船の経済状況を考えると、余計なエネルギー消費は避けたいところだ。
この飛行船もだいぶくたびれてきた。ドッグに入れて本格的に修復し、簡単に外れないような帆に付け替えたほうがよい頃合だが、その費用もばかにならない。いまのところ船員たちの手で修理し、ごまかしながら飛行を続けている。
リクの父アルは、この飛行船グース号に乗ってもう10年になる。故郷の浮島(うきしま)の家業であった農業を嫌い、商業専門の住み込み飛行船乗りとなる道を選んだ。ここで妻をめとり、リクが生まれ、この船は我が家としての温かい居場所になっている。しかし、先日相次いで病で亡くなった両親のことを思うと、このままでよいのか、という気持ちになる。家業は嫌っていたのだが、この船で農作物の取引に携わるうちに、農業がいかに難しく、そして重要な仕事であるかを身にしみて感じるようになった。
今は、妻もリクも幸いこの飛行船での生活を楽しんでくれている。特にリクは飛行船に興味を持ち、危険のないかぎり父親の仕事にくっついて歩こうとする。リクにとっては、大きなおもちゃ箱の中にいるようなものなのだろう。
今夜もおとなしくベッドに潜らず、妻の苦笑を残してアルの仕事についてきていた。
しかし、父親にかまってもらえずにいたリクは、なにがおもしろいのか船外の月の隠れた夜の闇を窓からじっと眺めていたのだった。
父親のそっけない言葉を聞いて、リクはよじ登っていた窓枠からぴょんと降りた。そしてその下にある、飛行船同士が衝突しないように常時点けている障害灯のハンドルに手をかけ、爪先立ちで窓の外を見ながら、不慣れな手つきでそのハンドルを操作し始めた。
いたずらでもしているのだろうと放っておいたアルだったが、「見て、見て」とリクがしきりに言うので、やれやれ、と作業の手を止めて立ち上がり、窓枠に手をかけた。
「なあ、リク。父さんは忙しいんだぞ。どうせ鳥かなんかだろう」
そう言って仕方なく窓の外を見たアルは、驚いて身をのりだした。
「なんだ、あれは……」
リクの操作では障害灯のあかりが定まらずよく見えなかったが、ちらちらと暗闇の中に照らされるその物体に、アルは目をしばたかせた。そして、慌ててリクの手ごと障害灯のハンドルをつかみ、動かした。
それはとても小さな塊だった。もう片方の手で壁にかけてある双眼鏡を取りそれをのぞくと、布のような柔らかいものにくるまれているようだった。それがこの飛行船グース号の横を並行して飛び、宙を漂っているのがあまりにも不自然で、アルは自分の目を疑った。
この空を飛べるものは翼のある生き物か、浮島や飛行船のように、アリウムという空気よりもはるかに軽い浮揚用ガスを詰めたものだけだ。
あの小さな塊には翼はもちろんないし、アリウムを詰めて飛ばすには意味の無い大きさに思える。
「赤ちゃんがいるんだよ」
リクは得意げに笑った。
リクを見てから、もう一度双眼鏡をのぞいたが、その小さな塊がリクの言うように本当に赤ん坊なのか、アルにはわからなかった。
「赤ん坊が見えたのか?なら回収したほうがいいが……しかし、赤ん坊は飛ばんだろう。……なんにしても船長に知らせるか」
とまどいながらもアルは、備え付けの送伝管に手を伸ばして引き寄せた。
「船長。聞こえますか?」
送伝管から、がさがさという音とともに船長の低い声が聞こえてきた。
「なんだ?アル」
「おやすみのところすみません。右舷に奇妙な物体が浮遊してまして……。リクが赤ん坊だって言うんですよ。障害灯で照らしてますが、そちらから見えますか?」
船長のどしどしという足音とともに、送伝管を伸ばす音が聞こえた。窓際へ移動したようだ。
「あれか?確かに妙だが……なんであれが赤ん坊なんだ?ただの塊にしか見えんが」
けげんな声で言う船長に、リクがアルの持つ送伝管を父親の手ごと引き寄せ言った。
「女の子の赤ちゃん。僕、会いたいなあ」
相変わらずにこにこして言う。
「うーむ。赤ん坊かどうかはともかく、どこかの船の落し物かもしれないな。ひとまずムクを出して、危険がなさそうなら回収しろ」
「わかりました」
「リク、おまえには仕事をやる。上にあがってこい。」
「おしごと!」
送伝管から漏れた船長の大きな声を聞き、リクは飛び上がって喜んだ。生まれたときからこの船に乗っていても、かやの外に置かれることの多い幼児は、父親と同じように船の仕事がしたくていつもうずうずしていた。
アルは船長の気遣いに心の中で感謝した。このままだとリクはアルについてムクに乗ると言いだしかねない。昼間ならまだしも、この暗闇でリクを乗せてあの荷物を回収できるほどうまいムク乗りではないことをアルは自覚していた。
リクは、アルがうなずくのを見届けると、操舵室までそう長くない道のりを踊るようにかけていった。あのこわもてのグレッグ船長もリクには甘い。生まれたときから自分の孫のように大切にしてくれている。
アルはリクを見送りながら、格納庫への階段を下りていった。商取引のための荷物が山となっているところをすり抜け、仕切りを作ってムクの厩舎としている部屋の扉をあけると、2頭の青ムクが鈍い動きでアルの方へその細い首を向けた。
「もう寝てたか?起こして悪いな。」
そう言ってアルは、緑がかった青い鱗をもつその首や背をなでてやった。2頭とも気持ちよさそうに喉をならし、アルの体にその細長い首を寄せてくる。
ムク、特に青ムクは、気性のおとなしい人によくなつく動物だった。立ち上がると人と同じくらいの背丈に爬虫類に似た小さな顔を乗せ、そのつぶらな瞳は愛らしい。大きな翼と長い尾はうまくたたんで狭い厩舎でも居心地良さそうに過ごしている。
人を乗せるのには恰好の長さと太さを持つ首の根元に、アルは鞍をとりつけた。4本の足を折り曲げたまま、首をたらしてくれると、ちょうど鞍に足をかけることができる。
「ありがとう、ルル。リーは留守番頼むな」
そう言ってアルがムクの一頭にまたがると、ルルと呼ばれたムクは4本の足で立ち上がり歩き始めた。慣れたもので、人を乗せるとハッチまで自分で歩いてくれる。アルは手綱をしっかりとつかんで壁に取り付けてある送伝管に叫んだ。
「船長、お願いします!」
すると、目の前のハッチがゆっくりと半分程開いた。冷たい夜気が流れ込む。ムクが飛び出すにはちょうどいいスペースができたときに、ルルは折りたたんでいた翼を、伸びをするように力強く広げた。その翼は広げると体長の倍以上の長さを持っている。
手綱で合図すると、ルルは開いたハッチに向かって走り出し、外の暗闇へと飛びだした。
大きく広げられた翼が、夜の闇の中、宙を切り裂く。アルは振り落とされないようにしっかりと手綱をつかみ、両足に力を入れた。気持ち良さそうに飛ぶ青ムクとは反対に、暗闇の飛行が苦手なアルは体をこわばらせていた。
十分に運動をさせてから、ムクをグース号に近づけさせ、例の浮遊物を探した。操舵室からライトを当ててくれていたのですぐに見つけることができた。しかし、その光は不器用な動きをしている。
「リクだな」
アルは苦笑しながら、その浮遊物を翼の風圧で飛ばさないようにその上空へと移動した。
「しかし、この暗闇でリクはよく見つけたな」
ライトが外れると、浮遊物がどこにあるのかまったくわからなくなる。
上から覗き込んでも、布に包まれたものがいったい何なのかさっぱりわからない。しかたなく、今度は下から回り込み、その包みが手元にくるようにムクを少しずつ上昇させた。ちょうどよい位置にムクを上昇させるのは、アルにとって至難の業で、苦笑いしているであろうグレッグ船長の顔が浮かんだ。
「商業船の船乗りはこのくらいでいいのさ」
自分に言い訳しながらも、なんとか手元に浮遊物を引き寄せた。
すっぽりと腕の中に納まる大きさのそれは、ふわふわとしてまるで綿菓子のように軽く、まったく重みを感じなかった。本当にこれ自体が浮かんでいる。単に浮揚用ガスのアリウムをつめているだけの包みに違いないと自分に言い聞かせ、恐る恐る布をめくってみた。
「!」
その手が止まる。驚きのあまり一瞬その包みを放り出したくなる衝動をなんとか抑えた。
「本当に、赤ん坊だ……」
アルはつぶやいた。そのまったく感じない重みのせいで実感が湧かない。自分を落ち着かせるため、赤ん坊から視線を外して深呼吸を数回した。それからじっくりと赤ん坊を観察することにする。
寝息にあわせて体がわずかに上下しているのがわかる。どうやら、ちゃんと生きているようだ。腕の中の赤ん坊はとてもかわいい顔をして、すやすやと気持ち良さそうに寝ていた。
しばらく放心していると、顔にちらちらと光が当たった。操舵室を見ると、船長からの催促の光のようだ。
「ああ、そうか、そうだ。こんなところに放っておくわけにはいかない。連れて帰らなければ……」
重みのない赤ん坊を放してしまわないようにしっかりと片手で抱き込み、もう片方の手でムクの手綱を調節して、アルはやっとの思いでグース号の後方にあるハッチにムクを滑り込ませた。
焦る気持ちを抑えて厩舎までムクを歩かせていると、次第に腕に赤ん坊の重みを感じるようになってきた。ムクを厩舎にいれ慌てて飛び降りる頃には、本来の赤ん坊の重みになっていた。
「いったい、なんなんだ」
いぶかりながらも、赤ん坊の愛らしい寝顔を見て、安堵のため息を漏らしたアルは操舵室へと急いだ。途中、出迎えに走って来たリクが「赤ちゃん、赤ちゃん」と見てもいないのにアルのまわりではしゃぎまわっていた。
「まさか、本当に赤ん坊とはな」
グレッグも操舵室でうなった。
空図をひろげるための台にひとまず赤ん坊をのせると、リクがよじのぼってうれしそうにご対面をしている。
「かわいいね」
そうっと赤ん坊の頬に人差し指をのせて、その感触を楽しんでいる。以前、取引のために寄港した浮島で、顔なじみの船員の赤ん坊を見たときもリクは喜んでいたな、とアルは思い出した。
グレッグが赤ん坊をくるんでいた布を調べてみたが、アリウムの容器などは見つからず、本当にただ赤ん坊が布にくるまれているのみだった。
「リク、おまえなんで赤ん坊だってわかったんだ?しかも女の子で大当たりだぞ」
アルの問いにリクは「見えたの」と得意げに答えた。
アルは目を丸くしながらしきりに首をひねり言った。
「まあ、それはともかく、どうやってこの赤ん坊は宙に浮いていたんだろう……。それにいったいどこから来たんだ?」
グレッグは、その横でじっと腕組をして赤ん坊を見つめている。
「人がアリウムなしで飛ぶとは……。まさか、飛人(とびびと)の赤子か……」
グレッグ船長は、アルには聞こえない小さな声でそうつぶやくと、顔をあげて船外の暗闇をじっと見つめた。