次の日は重い雲が立ち込めるどんよりとした日だった。
「いいぞ」
空を見上げてそうつぶやいたウィルは、バートから今度は馬車を借りた。
シンプルな彫り物が施された品の良い客車に馬を2頭つなげたが、客車は空だった。誰もいない座席に大きなバスケットだけを乗せてから扉を閉め、御者席に乗り込み、手綱をつかんだ。その瞬間、後方でカタンという音がする。
ウィルは首を少しだけ後ろに回し、ふくみ笑いをすると、そのまま、馬をゆっくりと走らせた。
ガードナー家の広い敷地を抜け、しばらく馬車を走らせていると、誰もいないはずの客車の中から、カサカサという控えめな音がする。
ウィルは横を向いて、客車の中に向かって言った。
「食っていいぞ」
「ひ!」
驚いたような、小さな悲鳴が聞こえる。
「昨日の夜から何も食ってないんだろう。まったく。オレに何か用か?」
客車の中で小さな影が、目を見張って小窓から見えるウィルの背中を見つめていた。
「わかってたのか?」
少年の声が答える。
「お前のおそまつな尾行がわからないわけがないだろう」
そう言って、ウィルは笑った。
昨日、アレスの町からの帰り、ウィルの後を追う少年がいた。物陰に隠れているつもりなのか、ジグザグに動き、かえって目立っていたのを本人は気が付いていない。馬に乗り込んでからも、どこからか調達した馬にまたがって、ガードナー家にまでついてきていた。
「あのときの仕返しか?言っただろう、お前には早いって」
「そんなんじゃない」
少年は少し言いよどんでから、決心して言った。
「オレを…オレを弟子にしてくれ!兄貴」
そのとき、少年の腹の虫が、グーっと大きくなった。
ウィルはぷっと吹き出し、振り返った。
「弟子なら、師匠、だろ。それに、オレはそういうのはやってない。まあいい。とっとと食って、前に来い」
少年は赤くした顔をぱっと輝かせて、開いていた大きなバスケットに手を突っ込んだ。
昨夜の残りをサンドイッチにしたものとフルーツが数種類、それにポットに飲み物の用意もしてあった。
「すげえ、こんな豪華な食事、ひさしぶりだ」
少年は両手にそれぞれサンドイッチをつかみ、満面の笑みで交互に食べ始めた。
「うめえ!こんなうまいもの、食ったことがない」
「大げさなヤツだな」
遠慮なくがつがつと食べ続けていた少年は、思い出したように言った。
「そういえば、どこにいくんだい?」
「ミラバー岳だ」
「ふーん」
大して興味もなさそうにそう言うと、少年は、今度はポットに直接口をつけてお茶をがぶがぶと飲み始めた。
「借りものなんだから、馬車を汚すなよ」
「あい」
そして、今度はリンゴを取り出してかじりついた。
「おれにもよこせ」
ウィルが言うと、少年は身軽にも走っている馬車を伝って、前の御者席へと移ってきた。
「はい、兄貴」
にっこり笑ってリンゴを手渡す姿はまだまだ無邪気さを残している少年だった。ウィルもリンゴをかじり、「それで」と少年に言った。
「お前の名前は?」
「ケビンだよ、兄貴」
名を聞かれて、ケビン少年はうれしそうに答えた。
「性は」
「?モーガンだよ」
一瞬きょとんとしたケビンに、ウィルは「なるほど」とうなずいて続けた。
「……お前、ダンじいさんの、孫か?」
「え?」
ケビンは目を丸くした。
「兄貴、じいちゃんを知ってるのか!?すげえ!」
うれしそうに食いついてくるケビンに、ウィルは声を落として言った。
「いつ亡くなったんだ?」
「あ…うん、去年だ」
とたんにケビンはしゅんとした。まだ祖父を亡くした悲しみは癒えていないようだった。ケビンが一人でスリをして過ごしていたというところから、既に高齢だったダンじいさんが亡くなっているだろうことは予想できた。
「そうか、残念だったな。……オレもガキの頃、ダンじいさんに教わったんだ」
そう言ってウィルは人差し指を立ててくいっと曲げた。
「やっぱり!じいちゃんみたいだって思ったんだ!兄貴についてきて正解だったぜ」
「お前、他に家族はいないのか?ダンじいさんには息子がいたって聞いたが」
「ああ。父ちゃんも母ちゃんもずっと前に死んじまった。そしたらじいちゃん、もう盗みは教えてくれなくなって。オレにまっとうになれって言ってさ。去年まで二人で真面目にお屋敷勤めしてたんだ。でもじいちゃんがいなくなったら、オレはお払い箱さ」
子供が一人で生きていくのは難しい世の中だ。ウィルも、ガードナー家の主人、ルーカスに拾われていなければ、どうなっていたことか。
あのころ、親のように大切な存在だったグレンが壮絶な死を遂げたあと、哀しみと怒りで自暴自棄になった10歳のウィルは、飲まず食わずで町をさまよい歩いていた。そして、もう立っている体力も気力も無くし、とうとう町の片隅で行き倒れてしまった。しかし、グレンと懇意だったルーカスが、ウィルを心配し探し続けてくれ、あわや、というところでウィルを見つけ出してくれたのだ。ルーカスがいなかったら、今ウィルはこの世にいないだろう。本当にルーカスには感謝してもしきれない。
ウィルはそんなことを思い出しながら、ケビンに言った。
「お前馬車は操れるか?」
そう言ってウィルは手綱をケビンに差し出した。
「ああ、オレなんでもできるんだぜ。屋敷を追い出されたのは、そこの女主人が嫌なやつで、オレとソリがあわなかったからなんだ」
ケビンは本当に、器用に手綱をさばいた。
「兄貴はあのお屋敷の御者なのか?誰かを迎えにいくのか?」
ケビンは空の客車に頭を傾けて言った。
「いいや、どれもはずれだ」
「ふうん、まあいいや。ミラバー岳ならオレ行ったことがあるぞ。前の女主人がそこで追いはぎにあったんだ。けっこう危ないところなんだ」
「へえ。なら行く価値はあるな。手綱を頼んだぞ」
おもしろそうに笑うウィルにケビンは不思議そうな顔をしたが、この馬車にずっと乗っていていいという許可をもらったのだと気づき、うれしくなって、馬車の速度を少し早めた。
ミラバー岳は現在、大きく迂回した道で山向こうに続くが、トンネルの造成が進められており、その掘り出した赤土をレンガなどにうまく転用している。赤みがかった土の壁と、柵の無い、下へと続く崖に挟まれた細い道は、ぎりぎり馬車がすれ違うことができる幅しか無かった。
「あまりいい道じゃないな」
馬車は道の起伏に合わせてゆれながら進んだ。
「トンネルができれば道もよくなるらしいよ。この先にいいワイナリーがあるとかで金持ちがよく通るからお役所もこのへんを整備することにしたんだって」
「ほう」
意外と物知りなケビンにウィルは感心した。
「で、どこに行くのさ」
「まあ、このまま進んでくれればいいよ」
「ふうん?」
ミラバー岳ももう少しで抜けてしまう。二人が乗った馬車は最後の一番狭い道に差し掛かった。馬車一台分の幅員しかなく、ここの前後に馬車の待機所がある。万が一馬車同志が鉢合わせたら、どちらかがこの待機所で待つように、ということだろう。
もう少しでこの狭い道から抜ける、というときに、山側の斜面の上から、人相の悪い男数人が滑り下りてきて、ウィルたちの乗る馬車の前に立ちはだかった。ケビンは驚いて、手綱を思いっきり引き馬車を急停車させた。
「危ないだろ!お……」
ケビンは大声で文句を言ったが、男たちの凄味をきかせた顔を見て、尻すぼみとなった。
「やばいぜ、兄貴。こいつら盗賊だ」
振り向いて馬車の後ろを見ると、そこにも男が数人立ちふさがっている。幅の狭い道のため前にも後ろにも逃げ道が無くなった。
「挟まれたよ、兄貴。どうしよう。有り金全部渡したほうがいいぞ。前の女主人はそれで話し合いして許してもらったんだ」
気弱になったケビンがウィルの腕をつかんだ。
「やっとおでましか」
ウィルはケビンの肩をポンとたたいて手を離させ、ニヤリと笑って悠長に馬車を下りた。立ちはだかった男たちを見渡し、一人の男の前でその視線を止めた。
「デニス。ここはお前の縄張りか」
名を呼ばれた、若くはないが屈強な体つきの男は、そのいかつい顔の眉間に皺を寄せて、ウィルを凝視してから、チッと舌打ちをした。
「ウィルか。ふん、まったくついてねえな」そう言ってかぶりを振り「引き上げるぞ」と手下たちに向かって手を振り上げた。
「な、なんでだよ、親方。こんなやわなヤツ、のしちまおうぜ」
威勢のいい若い男が言うと、デニスはカッと目を見開いた。
「お前ら100人いたって、こいつにはかなわねえよ!」
親方の怒声に若い手下たちは肩をびくっとすぼめた。馬車の上ではケビンが「兄貴すげえ」と目を輝かせている。
「お褒めいただき光栄だな、デニス。ところでちょっと聞きたいんだが」
既に背を向けていたデニスがギロッと無言で振り向いた。
「最近ガードナー家に入ったものはいるか?」
「おれの手下には禁じている」
デニスは、当然だろうと言わんばかりに機嫌悪く、しかしはっきりと言った。
「そうか、ありがとう」
デニス一味は来た時のすばやさが嘘のようにだらだらと動き出した。その中でウィルは、チラチラとこちらを盗み見ながら、びくびくとした足取りで出遅れている若い男に目がいった。
「おい!ネッド!ぐずぐずするな!」
中堅どころらしき盗賊に急かされ、ネッドと呼ばれた若い男は、慌てて走っていった。
「アイツなんか見たことあるぞ。前の雇い主の家にきてた気がする。でも盗賊が屋敷にくるわけないよなあ」
馬車の上でケビンがぶつぶつ言っているのを聞き、ウィルは「ほう」と口角を上げた。