その夜、ケビンがウィルの部屋を訪れ、開口一番、「聞いてないぞ!」と怒鳴った。どうやら、ウィルが明日この国を発つことを怒っているようだ。
「この前言っただろう」
片耳をふさいでウィルが言うと、
「この前はこの前だ!」
と反論してきた。
「どうしても行くっていうなら、オレも一緒に行く。これから嬢ちゃんに辞めるって言ってくる!」
部屋を出て行こうとするケビンの襟首をつかみ、ウィルは「まあ、待て」と止めた。
「なんでだよ。オレ、兄貴の役に立つぞ。兄貴に一生ついて行くって決めたんだ!」
いつのまにそんなことを。ウィルはまんざらでもなかったが、意に反し憎まれ口をたたいた。
「勝手に決めるな」
「なんだよ、兄貴のばかやろう。……嬢ちゃんだって、こっそり泣いてたぞ!」
「……」
それを聞いて、ウィルは少し心が痛んだ。そして、ケビンをこちらに向かせてその肩を両手でつかみ向かい合った。
「なあ、お前がここにいてくれれば、オレもローズのことを心配しなくて済む。これでも結構頼りにしてるんだぞ」
それは全くの嘘ではなかった。意外と器用で物知り、世間の荒波にもこの年で充分に揉まれているケビンだ。お嬢様らしくはないと言っても、まだまだ世間知らずのローズの味方は一人でも多い方がいい。
「……本当か?」
その目は怒っているが涙もたまり始めている。
「ああ、本当だ。ここにいて、オレの代わりにローズを守ってやってくれ」
ついにケビンの目から涙がこぼれ落ちた。慌てて袖でごしごし拭って、ケビンは顔を上げてウィルを見た。
「早く帰ってこないと、オレ、トーマスの兄貴に鞍替えするぞ。そのとき後悔しても遅いんだからな」
涙を流しながら、強気で言う。
それならその方がいい、とウィルは思ったが、口にはしないでおいた。
自信を多少取り戻したケビンがおかしかったが、笑いをこらえてケビンの背中をたたいた。
「頼んだぞ」
ローズが泣いていた。そう聞いて放っておけなくなり、ウィルはローズを探した。
昼間は笑顔を見せてくれていた。だから安心していたのだが、なにもこっそり泣かなくても。オレの前で泣けばいいものを。
ウィルは中庭に来ていた。ここで、昔のウィルは、散々小さいローズの前で泣き、慰められたのだ。幼い頃の記憶がかなりあるローズのことだ。きっとそのことも覚えているに違いない。気恥ずかしくて忘れてしまいたい過去の一つだ。
あずまやの中がほんのりとランプの明かりに照らされているのが見え、ウィルはゆっくりと近づいて行った。
案の定、ローズはそこにいた。一人でベンチに座り、膝を抱えて顔をうずめ丸くなっている。
「ローズ」
ウィルはあずまやの中にはいり、ローズの前にしゃがみこんだ。ローズはぴくりとしたが、顔をあげることはしない。
例の『グレンの宝』の部屋への入り口となる、大理石のテーブルの上にローズの伊達眼鏡が置かれていた。
「ローズ、もう夜は冷えるだろう。中に入ろう」
そう言っても、ローズは首を振るだけで姿勢を変えない。仕方なくウィルは立ち上がるとローズの隣に座り、その肩を自分の腕の中に引き寄せた。
驚いたローズはようやく顔を上げた。ウィルがすかさず覗き込むと、目を赤くして頬を涙で濡らしたローズがいた。
「ほら、体がこんなに冷えてるぞ。まったく」
そして顔を上げると言った。
「……一人で泣くな。泣きたくなったら、オレの前で泣け」
ローズはそれを聞いて、再び涙をあふれさせた。
「……ウィルのばか。なんで他の国に行っちゃうの?なんで、……なんで、そばにいてくれないの?」
ウィルは、困ったようにローズを見つめた。
「ウィルが心配なの。危険なお仕事で、怪我をしたりしないかとか、お父様みたいに遠くに行っちゃったらどうしようとか……」
しゃくりあげながら言うローズを、ウィルは思わずその胸に抱き寄せていた。
「……そんなことにはならない。必ずここに帰ってくるよ。ローズに会いに」
高まる鼓動を感じながら、ウィルは言った。
「覚えているか?昔はオレの方がローズに慰められていたな」
静かになったローズは、少ししてウィルの胸の中でこくん、とうなずいた。
やっぱり覚えていたか。
ウィルは開き直った。
「こうやって、小さな手でオレの頭を撫でてくれた。あれ、すごく落ち着いたんだよな」
今度はウィルが、ローズの頭をなでながら言った。しばらくすると、ローズは少し頭をもたげた。
「うん、落ち着く……。それに、とても暖かい」
赤い目と赤い顔で、ローズは恥ずかしそうに上目使いでウィルを見た。
「困らせてごめんなさい……。こんなこと、言うつもりはなかったのだけど」
父親がいなくなってからも、ローズはこうやって我慢することがいったいどれだけ増えたのだろうか。
「いいよ。なんでも言え」
「本当に?」
「ああ、なんでも聞いてやる」
ローズはくすくす笑った。
「昔に戻ったみたい。ウィルは私のことをとても甘やかすんだもの。あのままだったら私、とてもわがままな子になっていたかも」
そういえばそうだった。ローズはとにかく愛らしく、甘えるのが上手だったのだ。どうやらウィルのいない間にルーカスがきちんと躾をしたのだろう。
「じゃあね……じゃあ、またお料理して。ウィルの手料理、とってもおいしかった」
「よし、わかった。今度は魚料理をごちそうしよう」
ウィルも調子に乗って答えた。
ローズは他にも何かないかと思いを巡らせているようだったが、ふと、ウィルの胸に顔をうずめた。
「それから……あともう少しだけ、このままでいて」
「……いいよ」
ローズは、微笑むウィルの暖かい胸の中で、まるで猫のように、丸くなった。
翌、早朝。
朝靄が明けきらぬ都の広場に、ウィルは立っていた。この日朝一番の乗合馬車に乗るためだ。
静かな朝だった。他に客はいない。乗合馬車は出発の準備中だ。客車につけられた2頭の馬が気持ちよさそうにブラッシングをされている。
準備が整うのを待っていると、靄の中から人影が現れた。カツカツと石畳をならすその主は、強気な視線を据えて、まっすぐにウィルのところにやって来た。
「クローディア。よくここがわかったな」
誰から聞いてきたのか、クローディアはにっこりと笑った。
「私たちの情報網を侮らないでね」
それから、怒ったような顔をした。
「陛下の招待状を受け取ったのでしょう?もう少しここにいなさい」
「こっちにも都合というものがあるんだ」
クローディアはむっとして反論した。
「なぜ、この国に腰を落ち着けないの。あなたは、恐れ多くも陛下の、『王室専属に』、というもったいない依頼を断ったそうね」
「王にも伝えたが、オレは誰の専属にもならない。自分の決めた仕事以外はやらないよ」
「なら、せめてこの国にいてもいいじゃない。何も外に出なくても、あなたなら仕事の依頼はここでだって山ほどくるでしょう。それとも、何?この国にいられない訳でもあるの?」
「そんなものはない」
即答するウィルをいぶかしむクローディアだったが、しばらく黙って、それから諦めたようにふっと笑みをこぼした。
「なぜだか知らないけど、あなたがいなくなると陛下が悲しむのよ。それに私もね」
「ほう」
意外な言葉にウィルは微笑した。
「まあ、いいわ。今後も仕事の依頼はするつもりだから。選り好みしていないで、飛んで帰ってくるのよ」
クローディアは返事を待たず踵を返すと、朝靄が晴れて現れ出た豪奢な馬車へと戻って行った。そして颯爽と乗り込むと、その馬車は御者の掛け声とともに滑らかに走り出していった。
ウィルは苦笑しながら見送った。
しかしその後、広場の様子が変わり始めていることに気が付き、愕然とした。
「しまった」
朝一番の便にしたのはこれを避けるためだ。しかし、既に遅かったようだ。それらは目覚めはじめたのだ。
あたりには、どこから湧き出てくるのか、朝食を求めた多くの猫たちが、徘徊し始めている。そして見るからにその数を増していった。
ちょうど、乗合馬車の出発の準備が整ったという掛け声がかかったので、ウィルは慌てて馬車へと駆けこんだ。そして、その途端に大きなくしゃみが出る。
乗合馬車は、ウィル一人を乗せて、他に客がいないことを確かめてからそのドアを閉めた。そして、ゆっくりと走り出す。
ウィルは走る馬車の中から、窓の外を睨みつけた。
「やっぱりこの国はオレには合わない」
広場周辺やその先にも、ウィルにとってはゾンビに匹敵する恐怖を生む、愛らしい猫たちが、うじゃうじゃと湧いて出てくるさまが繰り広げられていたのだった。
おわり