バートが急いでいるので、ウィルは仕方なく話は後回しにして馬車に乗り込んだ。屋敷が荒れているとはいえ、さすがにガードナー家の馬車は乗り合い馬車とは比べ物にならないほど作りがしっかりしている。座席も多少の揺れでも心地よくいられるだけのクッションが効いているし、妙にきしむ音がするということもない。
しかし、御者席は一段高くなっているため、手綱を握るバートとゆっくり話をすることもできない。
バートは何故急いでいるのか、とウィルは馬車の中で思った。乗り合い馬車の御者のように、街道沿いの盗賊を心配しているのだろうか。
だが、バートは追いはぎのチンピラごときを恐れたりはしないだけの腕を持っている。
「それにオレを乗せているんだからな」
御者席のバートの隣に移って訳を聞こうかと思っていると、まだ領地の屋敷まで半分もいかない街道の真ん中で、急に馬車が止まった。
「ん?」
ウィルが前方の小窓を見ると、馬車の進路をふさぐように数人の人影がある。
「おやおや」
一目で、最近はやりの盗賊だとわかった。目をこらしてみたが、今回は知った顔がない。しかし、若いやつらばかりだったので、「オレの出番はないな」とウィルはふたたび座席に深く座りなおした。
落ち着いたいつもと同じ丁寧なバートの声が街道に響く。
「念のためお聞きしますが、この馬車をガードナー家のものと知ってのご所業でしょうか」
「どこの馬車でも知ったことか!」
すかさず苛立ったような若い盗賊の声が聞こえた。
「やれやれ、そうでございますか」
バートの大きなため息が聞こえる。
昔の盗賊は決してガードナー家ゆかりのものに手を出したりはしなかったのだが。
「この業界も乱れているようだな」
そうウィルがつぶやくと、顔をしかめたバートが、背を丸めて小窓から顔を覗かせた。
「わたくし今腰を痛めておりまして。夕暮れまでには戻りたいためここで手間取るわけにはまいりません。お手をわずらわせて申し訳ございませんが、お願いできますか」
「ほう」
ウィルはニヤリと笑って体を乗り出した。
「屈強バートも寄る年波にはかなわないってか」
「なんとでもおっしゃってくださいませ」
バートは楽しそうに笑った。
「やいやい!金目のものを置いて行きな!」
動じないバートにしびれを切らした盗賊たちが、鋭く光る刃物を持って近づいてきた。
ウィルは重い腰を上げ馬車を降りると、盗賊たちと相対した。
「言っとくが、怪我をする前に退散した方がいいぞ」
「な、なにを!」
盗賊稼業の日が浅いのだろう。盗賊は一瞬ひるんだが、一人の男が気を取り直して刃物を向け、ウィルに近づいてきた。
ウィルはすばやい動きでその男を交わし、手刀をその首筋に振り下ろした。男が力を失い倒れこむ寸前にその刃物を奪い、他の盗賊の足元に投げつけた。それが地面に突き刺さると、若い盗賊たちは一様に飛び上がって一歩後ずさった。
「この業界を甘く見るなよ。それくらいでビビッてどうする」
ウィルはあきれて言った。
「ち、ちくしょう」
やけになった盗賊の一人が、その胸元から小さな銃を取り出して銃口をこちらに向けた。仲間の盗賊のほうがそれに驚き、「お、おい、やめとけ」となだめている。
ウィルは動じず、その男を見据えてゆっくりと懐に手を入れた。それを見ただけで、盗賊たちはおののいた。
「オレの早撃ちが見たいとみえる。しかしなあ、その銃、ちゃんと手入れしていないだろう。銃口がつまってるぞ」
ウィルは片目をつぶって穴を覗き込むそぶりをした。
「おまえ、暴発って知ってるか?あれ、キツイんだよな」
銃を持つ男は「ひっ」と言って引き金から指を抜いて、爆弾でも持つかのように、手のひらに載せて腰を引いた。仲間の盗賊たちはその男から離れるために逃げ出した。
一人取り残された男は「お、覚えてろよ」と弱々しく捨て台詞を吐き、仲間の後を追って逃げていってしまった。
「お疲れ様でございます」
馬車を下りていたバートが丁寧にお辞儀をした。
「ウィリアム様にはめずらしく、銃をお持ちでしたか」
「いや、あんな重い物、いつも持っていられないさ」
そう言ってウィルは空の懐をはたいた。
「お見事でございます。では早速出発いたしましょう」
バートに急かされ、「やれやれ」と言って乗り込んだ馬車は、うめきながら倒れている盗賊をよけて、そのスピードを上げた。
郊外の領地までくると霧は晴れ、雲間から光が漏れはじめていた。
ガードナー家で世話になっていた頃のウィルは、大半をこの領地の屋敷で過ごしたため、帰ってきた、という気持ちになる。
門番もいなくなった背の高い門をバートが自ら開けると、そこには大きな前庭が広がった。緑をたたえ、中央に噴水を据えた広大なものだ。そして、その奥に荘厳なたたずまいの屋敷がそびえ建っている。前庭の中心を通り屋敷に向かって再び馬車を進ませ、ようやく屋敷の正面に到着した。
ウィルが馬車から降り、懐かしそうに屋敷を見上げているとバートが御者席の上から声をかけた。
「馬車を置いて参りますので、申し訳ありませんがこちらでお待ちいただけますか」
手をあげて応じると、バートは軽く会釈し、馬車を駆って行った。
この屋敷は確かに懐かしかった。左右対称に広がるコの字型の大邸宅。中央の上部は三角屋根となっており、その下には美しい彫り物が施されている。
しかし、都の屋敷ほどではないが、ここも人の手による維持、補修が充分でないようだ。
「確か……」
中央の大きな扉の前には左右各2体の彫像があったはずだが、今では台座しかない。近づいて見てみると、切り口がきれいだった。
「老朽化して倒れたわけではないようだ」
振り向いて前庭を見回したが、等間隔にあったはずの彫刻がやはりどこにもなく、台座だけがもとあった場所を知らせている。
それだけではなく、よく見てみると前庭には奇妙な変化もあった。以前は庭師がこの庭を整えていて、いつでも季節の花が咲き、美しい貴族の庭を維持していた。だが、今は奇妙な植物や花が所せましと生い茂り、以前とは別の様相で青々としている。ここには人の手が入っていることがうかがえるが、これらは決して庭を美しく着飾るための植物でないことは明らかだ。
それに、屋敷をとりかこむ植栽は明らかに伸び放題で、この屋敷の庭師の存在を否定していた。
この変化の意味を推測したがさっぱりわからない。
ウィルが首をひねっていると、正面の大きな両開きのドアの一方が静かに開いた。
ウィルが気づき振り向くと、ドアの間から若いメイドが姿をあらわした。
「ああ、怪しいものじゃないよ。今バートと一緒に都から来たんだ」
「どうぞ、お入りください」
メイドは怪しむ様子もなく、すんなりと言った。
「あ、そう?」
屋敷の中の変化も気になっていたので、ウィルは素直に中に入ることにした。
しかし、予想に反しエントランスホールは華やかさを保ち、調度品も、花の飾られた花瓶も以前と変わらずそこにあった。
ひとまず胸をなでおろし、メイドの案内に従って応接室に入った。髪をひっつめて、分厚い眼鏡をかけたその若いメイドは、なぜかエプロンを土か何かで黒く汚している。
「こちらでお待ちください」
そう言うと軽く会釈をして部屋を出て行った。
ぐるりと部屋を見回して、ほっとする。ここも昔のままだった。質の良いソファと絨毯。壁に飾られた額縁の絵も価値のあるものだ。きらびやかな燭台に時を重ねた壺、どれをとってもガードナー家の格を指し示している。メイドもいるし、都の屋敷のようにバート以外の使用人がいないというわけでもないらしい。
ウィルが安心してくつろいでいると、しばらくして、ティーカップとポットの乗ったトレーを持つバートが、部屋に入ってきた。
「お待たせいたしました。ただいまお茶をご用意いたします」
そう言い、ポットからお茶を注いでくれる。
「そんなことまでバートがしているのか。いいよ、適当にやるから」
あきれて言うと、バートはバツが悪そうに苦笑した。
「今現在、ガードナー家には私以外の使用人はおりませんものですから」
「え?」
ウィルは自分の目と耳を疑った。
「だがさっき、若いメイドにこの部屋に通されたぞ」
バートはそれを聞いて、おかしそうに笑った。
「それはロゼッティーヌお嬢様でございます。おわかりになりませんでしたか?」
「何?」
驚いたウィルは先ほどのメイドと、薄れつつある記憶の中の美しい少女とを比べたが、どうしても同一人物だとは思えず、首をひねった。
「そうか、変われば変わるものだ。てっきり美しく育っているものだと……いや、失礼」
「なんと。百戦錬磨のウィリアム様ともあろうお方が、お嬢様の美しさがお分かりにならないとは。いやはや、私はあなた様をかいかぶっていたようです」
バートはいささか大げさに言い、真面目な顔で抗議した。
「それは『じいや』の欲目だろ。それにしても『お嬢様』がなんでメイドのエプロンなんかしているんだ?それに寄宿学校はまだ長期休暇の時期ではないだろう」
「お嬢様は大変優秀でございまして」
そこでバートは、我がことのように胸をそらした。
「飛び級を重ねて今は大学院に在籍しております。薬学を専門としておりまして、現在は研究のためここでさまざまな植物を育てております。エプロンは庭仕事用に、余っているメイドのものを使っているようですが」
ウィルは前庭の奇妙な植物たちを思い出し、なるほど、とうなずいた。
「まあ、それはともかく、なんで使用人がいないんだ。ガードナー家に何が起こった?」
ウィルはようやく本題に入った。かつてはこの広い屋敷中に溢れていた使用人がバート以外誰もいなくなってしまうなど、かなり異常な事態だ。
バートはため息を一つついて話し始めた。
「すべてはだんな様がお亡くなりになられてからです。ぽつぽつと使用人が辞めていき、おかしいとやっと気づいた私がきつく問いただして、ようやく噂の存在を知りました」
「噂?」
「はい。ガードナー家がお取りつぶしになるという……」
ウィルは驚いて目を見張った。今までこの国で貴族がその爵位を奪われるということはないではなかったが、それは反逆罪などのそれ相当の悪事が暴かれたときのみだ。
ガードナー家は由緒正しい歴史ある家柄で、亡くなった主人はそれはそれは清廉潔白な人柄であり、貴族院の議員もしていたほど人望も厚かった。王家とも親しくしていたとも聞いている。それに今は、後継ぎが女性であってもなんら問題のない時代だ。
何をどう間違えばそういう噂がたつというのか。
ウィルの表情が険しくなるのを見て、バートは早口で言った。
「もちろん、それは根も葉もない噂にすぎません。その証拠にこの噂は庶民の間だけにしか広まっておらず、万が一貴族の耳に入っても、一笑に付されるだけのものなのです。私の知り合いの執事が、この噂のことを私に知らせる前にその主人に相談したところ、ありえない、と相手にしてもらえなかったそうですから」
「そうか」
それを聞いてウィルは安心した。噂好きの貴族が飛びつかないなら、それは全く信憑性のないものだと思っていい。
「だんな様への忠義心を強く持つものはそれでも残っていたのですが、使用人が手薄になったところに、盗賊が夜な夜な入るようになりまして。対抗しようとして怪我をするものや、こんな危険なお屋敷では働かせられないとその家族に懇願されて泣く泣く辞めたメイドもおります。そういうわけで今、正式雇用されているのは私一人となってしまいました。現在は知り合いのつてで、臨時雇いでつないでおりますが、それも本日の昼までで、その先が見つかっておりません。今夜、このお屋敷にはお嬢様と私の二人だけとなるところでした。ウィルリアム様に来ていただき、本当に心強く思っております」
ウィルはいろいろなことに合点がいき、腕を組んでうなった。
使用人として奉公するなら、誰もが長く勤めたいと考え、取り潰しの噂のある屋敷は敬遠されるのは当然だ。先の女王のおかげで景気が良くなったこの国では働き口はいくらでもあるのだから。しかも、盗賊が毎夜出没する屋敷に使用人が居つくはずはない。
「この屋敷に盗賊が入るとはな」
「どうやら時代は変わってしまったようです」
バートは寂しげに言った。
「しかし、なんだってまたそんな取り潰しなんて噂が出たんだ?」
「それが私も知り合いに頼んで出所を探してはいるのですが、まだ何もつかめていない状態なのです」
バートは大きく息を吐いた。
「で?」
ウィルは体を乗り出して、バートを見た。
「オレを呼んだ理由は?噂の出所探しとか、用心棒のためとかじゃあないんだろ」
ガードナー家は半端のない大金持ちだ。目に見えるところにあるものを盗まれたくらいで家が傾くなんてことは到底無い。
「それがですね」
バートは声を落とし、身を乗り出した。
「例の『鍵』が盗まれてしまったのです」
「何?……あの鍵、か?」
「はい」
神妙に答えるバートを見て、ウィルは眉間に皺を寄せた。そして、まだ少年だった頃の事を思い起こしていた。
子供のような茶目っ気のあるガードナー家主人、ルーカスが、ある日にこにこ顔でウィルの前に現れた。
『ウィル、これは大切な部屋の鍵なんだぞ。お前には特別に見せてあげよう』
そう言って得意げな表情を見せるルーカスが手に持っていたものは鍵とは程遠い形の、どこからどう見ても懐中時計にしか見えない代物だった。
『おじさん、これは時計だろ?なんで鍵になるのさ』
不満顔を見せると、ルーカスは満足そうにうなずき、あっさりと種あかしをした。ウィルはひどく驚いたが、そのあとその鍵を使って開かれた部屋の中を見て、もっと驚くこととなる。
「盗まれたことはお嬢様にはまだお伝えしておりません。あれを大変気に入っておいででしたので。なんとか、お嬢様に気づかれる前に取り戻していただきたいのです」
あの部屋は、この屋敷にまだ存在している。しかし、その鍵でなければ決して開かないのだ。
「お嬢様は、鍵だとはご存じありません。しかし、ご主人様の形見の中で一番思い入れがおありのようで、ときどき時計を取り出して眺めておいででした。盗まれたと知ったら、さぞお嘆きになるのではと思い、ウィリアム様におすがりしようと思ったのです」
「……嬢ちゃんは、鍵だと知らないのか?」
ウィルは不思議に思った。実の娘に伝えず、ルーカスはなぜ自分などにあの部屋の存在を教えたのだろうか。
「現場は鍵が盗まれた時の状態を保っております。本日はお疲れでしょうから、明日にでもご覧いただけますか」
バートは珍しく気遣いをみせたが、ウィルが次に言う言葉を予測しての発言だということは長い付き合いでよくわかる。ウィルは苦笑した。
「わかったよ。すぐ見よう。おじさんの書斎だろ」
「お手数をおかけいたします。どうぞこちらへ」
遠慮せず、すぐさま立ち上がるところがバートらしい。
二人は連れ立って2階の南側奥にあるルーカスの書斎へと向かった。
その途中でわかったのだが、きらびやかな貴族の体裁を保っているのは正面玄関ホールと応接室だけであり、他の部分はバート一人では手がまわらないらしく、相当寂しい様相を見せていた。
特にひどいのは、途中に通った広い廊下だ。ロングギャラリーとして、使われていたはずだが、その床にはチリが積もり、窓にはヒビが入っている。天井の隅には新しい蜘蛛の巣が張りめぐらされていた。
そして何よりもあっけにとられたのは、所狭しと並べられていた装飾品の類、絵や彫像などが一つも無くなっていたことだ。
「これは……盗賊のせいか」
がらんとした広い空間でウィルはあきれながらあたりを見回した。
「さようでございます。ですがこの廊下は目くらましでございます。毎日、なるべく大きく適当なものを置いておきますと、それだけで満足して盗賊はおとなしく帰って行きますので。この先への扉は厳重な錠をかけておりますので、お嬢様の生活空間や屋敷の奥は安全でございます。にもかかわらず、今回の盗賊は、その扉をもやぶったのか、ご主人様の書斎へと入り込み例の鍵だけを盗みだした……。考えられないことでございますが、あの秘密の部屋の存在を知るもの、もしくは疑いを持つものの仕業ではないかとも……」
「……なるほどな。オレを呼んだ訳がようやくわかったよ」
あの秘密の部屋を狙っての犯行だとしたなら、その存在を信じている『やつら』しかいない。しかし、『やつら』がこの屋敷に盗みに入るようなことをするだろうか。昔堅気で義理だけは重んじているはずだ。
「しかし、落ち着いているところを見ると、例の部屋はまだ無事のようだな」
「はい。そちらのほうは何の変化もございません」
「そうか……」
あの部屋の存在が、あり得ないとは思うがどこからか漏れたとしても、鍵の仕掛けを解明するのは至難の業だろう。しかし万が一ということもある。
考えを巡らせているうちに、二人はルーカスの書斎へとたどり着いた。
バートは胸元から、こちらは正常な形の鍵を取出し、鍵穴に差し込んでその扉を開けた。
部屋の中は昔とほとんど変わっていなかった。部屋の主人ルーカスが今でも使っているかのように生気を帯びて見え、ウィルはしばらく感慨にひたった。それから気をとりなおして口を開いた。
「この部屋の鍵は?」
「私とお嬢様だけが持っております。盗難に気付いたときも鍵はかかっておりました」
「ほう」
ということは3つ目の鍵が存在するということだ。
ウィルは慎重に部屋の中へ足を踏み入れた。荒らされた形跡はなく、他に盗まれたものもないという。
「まったく不思議でございます。この屋敷に入る盗賊は皆、散らかし放題の奪い放題。目に見えるものは片っ端から持っていくやり方でございますのに」
「ここに来るような怖いもの知らずはチンピラだけだろうからな。しかし、今回は様子が違うようだ。あの鍵を狙った犯行という可能性も否定できない」
ウィルは壁一面の書棚に近づき、少し考えてから、別々の棚から本を一冊ずつ抜き出した。
「確かこうだったよな」
そして互いの場所を交換して本を差し込む。
カタカタという音が書棚の奥から聞こえ、パカッと何かが外れる音がした。
ウィルは隣の書棚に移動し、数多く並んだ本の列に人差し指を向け動かした。
「これか」
大きな百科事典に手をかけ、2つ抜き出し、その奥の板を慎重な力加減で押し込み、そのまま右にずらした。
「よく覚えておいででしたね」
バートが感心してうなずく。
ウィルは顔だけ振り向いて得意げな表情を見せながら、その奥の小さな空間に手を入れた。
「確かに空だな。しかし、まさかその盗賊がこのからくりまで破ったわけではないのだろう?」
手を引っ込めてからウィルは聞いた。
「はい、おそらく。実は、ロゼッティーヌお嬢様はあまり防犯にご興味がなく、ときどき出しっぱなしにしておられるのです。お諫め申し上げてはいるのですが」
バートは小さな溜息をついた。
「なるほどな。置いておくとしたらどこだ?」
「よくご主人様の椅子に座ってあれを眺めておいででしたので、そちらの卓上かと」
そう言ってバートは、部屋でひときわ存在感を放っている書斎机に、そろえた指を向けた。
大きな窓の前にある、重厚な黒塗りの机。年代物であることがその鈍い輝きからも見て取れる。見慣れた机だったが、そこにルーカスがいないことがあまりにも不自然に思えた。
ウィルは思い直して、書斎机に向かった。
卓上には、細長い簡素な作りの筆記具入れがあり、その中には万年筆などが入っていた。作り付けの引き出しを開けると、紙類の他にマネークリップや煙草入れなどが、整頓されて入っている。主人の好みを反映して、装飾はすべてシンプルなものばかりだが、ガードナー家の当主らしく、どれも価値のある一品ものばかりであった。
「手付かずか」
鍵がもたらす莫大なものを考えると、これらの価値もかすむため、残していても不思議はないが、そうなると、鍵目的の犯行という可能性が高くなる。
ウィルは考え込みながら、机の正面に回り込んだとき、何かにつまづいた。
「おっと」
下を見ると、ほんの少し床板がせりあがっている。
「申し訳ございません。先の長雨のせいでしょうか。さっそく補修いたします」
バートも覗き見て恐縮した。
「いや、待てよ」
ウィルは床面すれすれまで頬を近づけて、その部分を片目で床と平行に見た。
それから、立ち上がって書斎机の引き出しから白い便箋を取出し、元の位置にしゃがみこみ、床から何かをつまみとった。
「何かございましたか?」
「これは……赤土か」
ウィルは念のため自分の靴底を見たが、同じものはついていなかったし、そういう道は通ってこなかった。バートの靴底はきれいなもので、最近そういった道は歩いていないという。
盗賊もここでつまずき、その衝撃で靴底の赤土が落ちた可能性がある。
ウィルは立ち上がり、ふと窓の外に目をやった。そこには大きな中庭が広がっている。
そして、その中に茜色の夕日を浴びながら、メイドのエプロンをつけた娘が、庭仕事をしていた。
「あそこで赤土を使っているか?」
「さあ、どうでしょうか。庭園についてはお嬢様が好きにお使いになっていらっしゃいますから」
「じゃあ、挨拶がてら聞いてみるか」
「是非そうしてくださいませ。お嬢様はウィリアム様にお会いするのをとても楽しみにしていたのです。先ほど気づいてもらえなくてきっと残念に思われているはずです」
「そうか?」
ウィルは首をかしげた。
会うのを楽しみにしていたようには見えなかったが。それに、彼女が8歳のとき以来会っていないのだし、オレのことを覚えているかすら怪しい。
ウィルはあいまいに笑ってバートと別れ、勝手知ったる屋敷の中庭へと向かった。